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2025.04.28
ひとえに彫刻作品といっても、作品によって技法や材質は異なります。木や石などの固い素材を彫り刻む技法を彫刻(カービング)、粘土など可塑性のある素材を盛りつけたり削ったりする技法を彫塑(モデリング)といいます。もっと単純に考えると、彫刻は外から内に、彫塑は内から外に向かうプロセスをとって形成されています。制作プロセスは異なりますが、現代日本の美術では、彫刻と彫塑で制作された立体造形作品を彫刻と定義することが多いです。
砺波地域は、伝統工芸の井波彫刻をはじめ木工木彫が盛んなところです。木彫の技法を礎とした彫刻家を多く輩出してきました。そうした中で、砺波市出身の永原廣と堀田清は、この地域では稀な彫塑の系統に属する作家です。
永原廣(1905~1993)は、砺波地域はもとより県内の彫刻家に大きな影響を与えました。1923年に上京し日本美術学校に入り、在学中に新海竹太郎(1868~1927)に師事します。新海はドイツで学び、日本における裸婦彫刻の先駆的作品である「ゆあみ」(重要文化財、東京国立近代美術館所蔵)を制作した彫刻家です。永原は、新海から彫塑のほか、東洋と西洋の美術について深い教養を学びました。卒業後は帝展や白日会で作品を発表し受賞を重ねました。このまま当時の彫刻界の本流を行くはずが、戦争によって状況は一変します。永原は、戦争をテーマにした作品を多く制作し、戦時中の資材不足を解消するため、本郷新(1905~1980)、笠置季男(1901~1967)、大須賀力(1906~2009)らとセメント彫刻の研究まで行いました。しかし、1943年、戦火を避けるため砺波に帰郷します。戦後は、砺波を拠点に創作活動を行い、県内の展覧会や日展に積極的に出品してきました。空間との調和を図りながらも、物体そのものが持つ量塊を意識させる作品を制作しました。永原は、自身の創作だけではなく、近代彫刻の在り方、教養、芸術観などを仲間に語ることで、後進の育成にも貢献しました。
堀田清(1933~2024)は、永原に影響を受けた彫刻家の一人です。富山大学教育学部第二中等教育科の授業での頭像制作の課題がきっかけで、同大学助教授だった大瀧直平(1904〜1987)に師事し、その後は永原の薫陶を受けました。堀田の制作初期には、永原の影響からセメントを使用した作品を制作しています。堀田は、自由美術協会に所属し、富山県彫刻家連盟委員長、砺波市美術協会長を務めるなど、県内の芸術文化の振興に尽力してきました。テラコッタ風の着色を施した端正な裸婦像を制作し、三次元の空間にいかに美しく人体を存在させるかということに主眼を置き、女性の美を彫塑で追求しました。1990年代には、古代彫刻の浴女を連想させる座像を多く制作し、自身が初めて女性の美しさに感動した情景と高校時代に出会った「しゃがむアフロディーテ」を作品に昇華させました。
塊と量感を要にして、大胆な具象表現を行ってきた先駆的な永原廣。永原を尊敬し追随しつつも、自身の表現を追求した堀田清。砺波を拠点に、自分たちの創作に邁進する二人の作品からは、並々ならぬ彫塑への情熱が感じられることでしょう。